、69歳。映画『ザ・ウーマン』『魔界転生』『陽暉楼』、テレビドラマ『金曜日の妻たちへ』などに出演し、抜群の存在感を発揮した1980~2000年代の人気女優だ。その美貌と、時に大胆な妖艶演技でバイプレーヤーとして長らく第一線で活躍していた。しかし、2013年、で倒れ、入院とリハビリ生活を余儀なくされて表舞台から姿を消す。突然の病から12年半、その近況は聞こえてこないが、現在の彼女の病状はどうなのか。看病を続ける、夫の放送作家・源高志さん(77)がインタビューに応じた。源さんが明かした闘病の経過と、夫婦が陥った苦境とは。
【前後編の前編】
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胃ろうとおむつ
「かみさんは今も伊豆の病院に入院したままです。基本的にはベッドに寝たきりですが、病室に入って“来たよ”と言うと、目を開けてパチっとまばたきで返事をする。食事は胃ろうで摂っており、喉に穴が開けられているので、話すことはできません。声を出そうとすると、うなり声になってしまうんですね。排泄もおむつをつけています」
と説明する源さん。
「ほとんど毎日、病院に通っています。私はもう77歳ですし、以前に背負った借金のこともあり、貯えがほとんどないですから、経済的には苦しい。今は生活保護を受けています。傍から見れば、大変な生活に見えるでしょう。倒れてから12年半、友達からは“あの源がよくやっているよ”と言われますけど、実は今の暮らしはそこまで苦痛じゃないんです。毎日、食事と洗濯、掃除をして妻に会いに行く。“貧乏生活を楽しんでませんか”と友人から言われるほどです。むしろ私がかみさんに生かされているのかもしれませんね」
そう語る源さんの表情や口調からは、確かに悲壮感は感じられない。
2人の歩み
ここに至るまでの2人の歩みを振り返ってみよう。
は、1956年生まれで現在、69歳。短大在学中に、日本テレビ主催のミスコンテストで入賞し、芸能界デビュー。映画『ザ・ウーマン』、『魔界転生』などに出演し、人気を博した。1990年、『スター誕生!』などを手掛けた人気放送作家・源高志氏と結婚。その後、夫が金銭トラブルで抱えた借金に苦しんだものの、夫婦で完済。その後はネフローゼなどの病にも見舞われたが、こちらも寛解した。その経緯については【後編】で詳述するが、老年期の入り口を迎え、その後の人生を、2人で住む伊豆半島・熱海市で穏やかに過ごそう――が彼女を襲ったのは、そんな矢先の出来事であった。
倒れ、いびきをかき始め…
源さんが振り返る。
「2013年の1月10日のことでした。夜、家で『報道ステーション』を見ていたんです。すると、一緒にいたかみさんが顔をしかめたように見えた。“どうしたの?”って聞いたら、顔が元に戻ったんですよね。で、“トイレに行きたい”と言ったんですが、今度は自分で立てなくなっている。そこで、肩を貸してトイレに連れていった。そうしたらそのままトイレで倒れこみ、いびきをかき始めたんです。これはまずいなと思って、すぐに救急車を呼びました」
その時は既に意識を失っていた。
「市内の病院に着くと救急処置室に運ばれて治療を受けましたが、でした。医者は“出血が多くて無理です”と。生命維持の危険度を表す数値が300にまで達して、交通事故で言えば、即死のレベルだという。“明日の10時に取りに来てください”と言われたのが朝の4時頃でしょうか。これはもう、遺体を取りに来てくれ、という意味ですよね…。家に帰ってもとても眠る気にはなれなかった。まんじりともせずに部屋の真ん中に座っていたら、7時半頃、病院から電話があり、“すぐ来てください”と言われました。駆け付けると“手術をやります”。何があったのか、数値が170くらいまで回復していたそうです」
手術が終わったのは、その日の夕方だった。10時間を超える大手術だった。
「成功しました、と言われて。ただ、脳が腫れあがっているので、脳圧が持たないかもしれない。(脳圧が)50を超えたら生命維持装置を外しますと告げられました。その後の2日間、3日間は34~35くらいまで上がっていたんですが、50までは届かなかった。以降、脳圧は15くらいまで下がっていったんです。次第に意識も戻り、目も開くようになりました」
地道なリハビリ
奇跡的に一命を取り留めた佳那。その生命力には、医者も驚いたという。しかし、それは長いリハビリ生活の始まりをも意味していた。
「ベッドの上にいて動けない。目は開いていますが、天井を見つめているだけの状態でした。入院して3~4カ月経ち、状態が落ち着いた頃、先生に“リハビリ専門の病院に移った方が良い”“そうしたら回復のカーブが上がるかもしれない”と言われ、3つの病院を勧められました。そのうちのひとつが今も入院している東伊豆町の病院。ここは週に3回、お風呂に入れてくれますし、温泉が出ています。そこが良かった。紹介してもらって転院することにしました。倒れた当時は、熱海から東伊豆町まで毎日片道1時間少しかけて車で通っていましたが、さすがにキツかった。そこで4年後には、病院からすぐそばの、今のアパートに引っ越したんです」
リハビリは専門の医師が担当し、源さんの役目は毎日、お見舞いに行き、佳那に話しかけること。倒れた際は、再び歩けるようになる確率は4%ほどだと医師に言われたという。
「しかし、病院の地道なリハビリのおかげで、徐々にですが、かみさんは回復していった。毎日午前中に、身体を起こして、ベッドに座らせてもらうなどの運動を、一時間弱続けます。それをコツコツ続け、7年くらい経った時には回復のカーブがぐーんと上がってきた。話しかければ顔を動かしてこちらを向きますし、ベッドを半分ほど上げて座らせると、左右を向いたりすることも出来るようになった。車椅子に乗れるようになり、病院の中庭まで“散歩”も出来るようになった。手を持ってあげれば、二足で立ちあがれるまでになったんです。もうじき車椅子の生活まで行けるな。そう思って疑いもしませんでした」
しかし、そこを襲ったのがコロナ禍。これがすべてを狂わせた。
2年半会えない
「私も面会に行けなくなったのはもちろん、リハビリの先生も入れないようになってしまった。看護士さんが病室に行くのも制限されました。中の様子がわからないようになってしまったんです。その間はボイスレコーダーにメッセージを吹き込んだり、ビデオを撮って友達にDVDに焼いてもらったりして病院の受付に届け、それをかみさんの前で流してもらっていました」
ようやく妻に面会できたのは、コロナ禍が始まって2年半ほど過ぎた頃だったという。再会した瞬間、驚いた。
「倒れて1~2年目の状態に落ちてしまっていた。名前を呼んでも、まばたきの動きくらいしか反応がなく、下までは伸ばすことが出来るようになっていた左腕も、胸の前で固まるようになってしまっていて…」
この7年は何だったのか。ただただ唖然とするばかりだったという。
経済的苦境
こうしてリハビリ生活が長きに亘る中、源さんは経済的な苦境にも苦しめられていた。佳那が倒れた際、源さんは既に65歳。佳那も57歳と、既にリタイアが近づいている時だった。冒頭に述べたように、夫妻はかつて借金に苦しみ、ようやく完済した身である。また、佳那がネフローゼに罹患した際には、多額の医療費を支払った。そもそも経済的な余裕がない中、入院生活が始まったのである。
「個室に入れていましたから、入院費やその他で月に35万円もかかりました。苦しくて一般病棟に移しましたが、それでも月に15~16万円はかかる。それ以外にも生活費が出ていくでしょう。一方で、収入は年金と、私が当時、行っていた大学や大学院の客員教授の講義だけ。月に4~5万円くらいですし、それも67歳で定年を迎えました。ですから、入院費はとても賄えるものではありませんでした」
佳那が倒れた当時、夫婦は熱海に新居を建設中。市内のアパートに仮住まいをしていた。が、当然の出費に、新居の建設を諦め、土地を売却した。
「熱海の市役所に状況を相談したら、市営住宅への入居を勧められました。そして
“このままでは入院生活は維持できないから、生活保護を受けなさい”とアドバイスをもらったんです。もちろん葛藤がありました。半年くらいは悩みましたかね。が、入院が続くうちに、このままではとても生活が持たないのがわかってきた。苦衷の決断ですが、生活保護を申請することにしました。以後は医療費が無料になり、家賃は住宅補助で賄っている。月8~9万円出る生活扶助金で、日々の暮らしを回しています。それでも家計はギチギチ。車も手放し、外食するのも月に2~3回程度。大体は友達のおごりです」
中島みゆきの曲を
源さんの現在の日課は、朝起き、食事の用意をする。そして、午後になると、病院の送迎バスに乗り、見舞いに向かう。
「病室に入って“来たよ”と言うと、かみさんは目を開けてパチっとさせます。午前中にリハビリや入浴があると疲れている風なので、“バテてるんか”と声をかけたりして。それから目薬を差し、顔に軟膏を塗ってあげます。どうしても顔が赤くなりがちなのでね。そして肘や膝の関節にも軟膏を塗って。それから両足のマッサージ。膝の関節を伸ばしてあげると、自分で足を曲げる。その繰り返しです」
病室では、佳那の好きだった曲も流すという。
「中島みゆきの『ヘッドライト・テールライト』。それから井上陽水、小田和正、ユーミン、山下達郎とかね。音は完全に聞こえていますから。こっちの言っていることも理解できる」
元気だった頃の思い出話もする。
「以前、うちで飼っていた猫が『さくら』というんですが、“さくちゃんのお墓、修善寺の山の中にもあるよね”と言うと、目をパチッとさせる。“さくちゃんのような猫、また飼いたいよね”と言うと、またパチッと。あるいは、伊豆で良い海岸があったので、その画像を撮って彼女に見せながら、“今度、この海岸の近くに引っ越そうな”と言ったりもします。すると、まばたきを一回する。まばたき1回は“はい”、2回は“いいえ”の意思表示なんですよ。そうやって“会話”を楽しんでいます」
そして面会時間が過ぎると、再び病院の送迎バスで自宅に戻るのだ。
源さんは言う。
「いまは元に戻るのは難しいかもしれませんが、せめて車椅子で“散歩”して、かみさんが大好きだった海が見られるようにはしていきたいです。大きいことは望まない。穏やかな暮らしが出来ればそれで良い。俺たち夫婦は結婚して以来、いろいろなことがありましたから……」
【後編】では、波乱万丈すぎた夫婦の半生を振り返る。1億7000万円の借金を背負った夫に、妻がかけた言葉、そして、妻が取った大胆過ぎる行動とは。
デイリー新潮編集部