8月6日、帝国データバンクは、老舗の大手タレント養成所・(株)宝映テレビプロダクション(以下「宝映」)が、7月17日に東京地裁へを申請し、同月30日に破産手続き開始決定を受けたと発表した。負債総額は約1億140万円だという。宝映は今年1月17日に「多額の債務超過」で「資金繰りがつかなくなった」として、事業終了と破産手続申立てを行う予定であると告知していた。当時、所属タレントやスタッフからは「寝耳に水」との声が挙がっていた。
コロナ以降、芸能プロダクション(以下「芸能プロ」)を取り巻く環境の厳しさが伝えられる。壇蜜や吉木りさが所属していた「フィット」の破産(24年3月)、伊藤英明や岩城滉一、吉岡里帆、松本まりからが所属してきた「A-Team(エー・チーム)」の休業(24年4月)、昨年暮れの藤原紀香らが所属していた「サムデイ」の破産など。だが、「宝映」のは、そういった例とはやや趣が異なる。将来性のある人材をスカウトしマネジメントする芸能プロと違い、宝映は基本的に「一般募集」した人材を養成する経営をしていたからだ。【渡邉裕二/芸能ジャーナリスト】
***
特に目を向けていたのが「子役」。親御さん――特に熱心な母親の「うちの子は可愛い」「うちの子はタレントに向いている」という欲望を汲みビジネスを展開していた。「宝映」のようなタレント養成所は大小を含め全国に数多くあるが、は大手としては初のケースだった。
「うちの子はタレントに向いている」。そんな親心を糧にしていたビジネスの舞台裏とは(写真はイメージ)
帝国データバンクによると、宝映の負債総額はタレントなど約738名に対して約1億140万円で、「ほとんどはエキストラ出演料の未払い」だという。
05年9月期の年収入高がおよそ1億4,900万円だった売り上げは、10年代になると9,000万円台と1億円を切るようになり、破産手続き申立て3ヶ月前の24年9月期には、約6,100万円にとどまっていた。社員は10人程度だというから、ギリギリの経営だったことが分かる。
さらにくわしい状況を知るべく破産手続き申立てを担当した弁護士に問い合わせたが、「一切答えられない」の一点張り。破産管財人の弁護士にも連絡したが、事務担当者からは「席を外している」「外出中」との返答のみで、大まかな質問と連絡先を残しても返答はなかった。
スポーツ紙に「子役募集」「タレント募集」の広告
筆者は今回の破産に「令和の芸能界」で俳優やタレントの発掘・養成、さらにはマネジメントも含め舵取りすることの難しさを示していると感じた。その背景を理解するためにも、まずは「宝映」の前身だった「東京宝映テレビ株式会社(以下「東京宝映」)」について語らなければならないだろう。
同社は1977年に設立されたが、その母体は1960年に発足した「劇団フジ」だった。同劇団には、日本を代表する名監督・稲垣浩監督や俳優・杉狂児氏らが関わっていた。この成り立ちを考えると、東京宝映の設立には、募集や養成、マネジメントなどの事務的な業務を担う事務所としての役割が求められていたのだと想像できる。劇団と芸能プロの機能を兼ね備えたのが東京宝映だったわけだ。実際、名誉会長は稲垣監督が務めていた(劇団フジ自体は脚本と演出を担当していた田村丸氏が運営を担っていた)。本社事務所は東京・飯田橋から神楽坂を上がったところの新宿区白銀町に、劇団は道路を挟んで向かいの新宿区津久戸町にあった。
実は筆者は、そんな「東京宝映」の業態に興味を持ち、入社したことがある。1980年のことだ。当時まだ芸能界の知識は耳学問程度だったので、関心と言うよりも好奇心の方が強かったように思う。今になって良かったと思えるのは、配属先が「募集」「総務」「芸能」「劇団」ではなく、ビジネスの裏方を覗ける「教務課」だったことだ。
「東京宝映」のビジネスは、俳優やタレントを街中などでスカウトするのではなく、まずスポーツ紙や情報誌「ぴあ」、タレント雑誌などに「子役募集」「タレント募集」といった広告を出稿することから始まっていた。独自の劇団を有していたため、入所すると、劇団が内部で実施していたオーディションを経て舞台公演に出演するという流れだった。とにかく演技実績を重ねていくことが重視されており、これは、一般的な芸能プロではできない手法だったはずだ。
募集広告は通常、スポーツ紙の場合は芸能欄の下に5段広告として掲載していた。時には朝日新聞にも出稿し、スポーツ紙では駅売りのみとなる休刊日に最終面1ページを使った全面広告を展開することもあった。当時、東京宝映の香山新二郎社長に広告費について尋ねたことがある。1回に3,500~4,000万円を注ぎ込んでいると明かし、「そんなのは大した金額じゃない。うちで大物に育てれば、その何倍にもなる」などと豪語していた。なるほど、広告費も投資と考えれば安いものなのだろう。
応募者から数万円の審査料 胡散臭い、と思うなかれ
それだけ大々的に広告を打っているので、当然ながら応募者も多く、募集は1クール3ヶ月で年に4回の入所オーディションが行われていた。しかも1回の募集で1万人前後の応募があったように記憶する。驚いたのは、履歴書によほどの問題がない限り、応募者全員に「面接日程」を発送していたこと。面接には、およそ2~3割の2,000人程度が会場に詰めかけた。応募者からは1人数万円の審査料を徴収。審査は映画監督やテレビの制作プロデューサーらが担当したが、実際は人物確認程度で、面接者全員に即日合格通知が発送された。
こう書くと胡散臭いと思う人もいるかもしれない。だがこのシステムを知って筆者は「なるほど」と思った。そもそも才能や能力などは、履歴書や1度の面接で分かるはずがない。であればやる気のある人や芸能界に夢を抱く人を、まずは分け隔てなく入所させることは理にかなっている……と理解したからだ。
即日の合格結果の発送も「審査を受けてから熱が冷めないうちに合格通知を送ることが入所率を高める」という理屈から。時間を置いてしまうと意識も薄らぐというわけで、実際、面接者の半数は入所手続きをしていた。入所金(20万円程度だった)を支払わなければならないわけだから、「鉄は熱いうちに打て」が成功していたといえるだろう。
もっとも「こういうやり方で飯を食っていることを心得ておけ」などとも言われたので、手放しで肯定できる仕組みではないという自覚も、社内にはあったのではないか。
とにかく人数が多かったので、レッスンや稽古は本社のあった神楽坂、さらに三宅坂の社会文化会館内の会議室、平川町の貸しビル会議室などで行っていた。クラス分けも大変で、新しい稽古場探しに動いたこともあった。ただし講師陣にはしっかりとした人材をそろえ、現役の映画監督やプロデューサー、テレビ局の現役制作担当者などのスケジュールを調整し講師に迎えた(当然ながら講師料も高額だった)。
ある時、講師の1人だった映画プロデューサーに呼び出され、代々木上原にあった自宅を訪れたことがあった。そのプロデューサーは、さまざまな監督や映画会社、制作会社の名前を挙げ「何だ、知らないのか」「それで教務の担当が出来るのか」と筆者を叱責した。さらに「教務の仕事は、頑張っている子どもたちに夢を与え、最高の演技指導で育てることだろう」と説教された。現場にはたしかな情熱があったのだ。
松平健、三原順子、、つるの剛士、…多くのタレントが
東京宝映(劇団を含む)は、松平健、稲川淳二、大場久美子、小川範子、三原順子(現・三原じゅん子)、、つるの剛士、、声優の伊東範子(現・日高のり子)など、数多くの俳優やタレントを“輩出”してきた。歌手志望で「ローレライ」でデビューし、映画「スパルタの海」でヒロインを務めた横田ひとみ、CMやドラマで人気を博した大泉成子、映画出演をきっかけに滝田洋二郎監督と結婚した山中千多枝、松田聖子のライバルとしてデビューした浜田朱里など、例を挙げれば枚挙にいとまがない。
だが、振り返ると、東京宝映の事務所・劇団を退所して、他の芸能プロに移ってから売れた俳優やタレントが圧倒的だったのも事実。よく稽古が終了する時間になると、神楽坂の本社周辺には芸能プロのスカウトマンが現れ、目を光らせていた。東京宝映は芸能部があったが、売り込みの実動マネジャーは2~3人程度しかいなかった。1人は当時売れっ子だった三原に付きっきりだったことを考えると、マネジメントよりも募集と養成までが限界で、活躍の場を求めて他の芸能プロへ移籍したのは当然だったといえる。
一時は三原順子の人気を頼りに、映画製作にも幅を広げようとしていたこともあった。1982年公開の映画「人形嫌い」(日高武治監督=東宝東和)の企画・製作をした。91年には出身俳優である松平健を主演にした「ストロベリーロード」(蔵原惟繕監督=東宝)をフジテレビと共同製作してもいる。特に「ストロベリーロード」は三船敏郎や大地真央、桜田淳子など錚々たるキャストをそろえ、タレントの養成所の作品としては異例のものだった。しかし、映画製作への進出は事業拡大には結びつかず、むしろ命取りとなった可能性がある。
東京宝映としては、80~90年前半の全盛期は、少なくとも十数億円の年間収入を誇り、神楽坂の本社裏に自社ビルを建てていた。だが、90年代後半になると少子化による入所者の減少とテレビの衰退で減収の一途を辿っていった。
社名を「宝映テレビプロダクション」に改めたのは00年代になってからだといわれる。その後、「劇団フジ」と分業化したことも経営を悪化させる要因になっていった。一方で、既存の芸能プロが、それまではリスキーとしてきたタレントの育成に力を入れ始め、アカデミーなどを開設し養成に力を入れはじめたことで、宝映の存在感は薄まった。演技指導で迎えていた映画監督やプロデューサーたちも、独自のワークショップを積極的に展開するようになった。さらにはSNSの発達で、高額な入所金を支払って養成所に入らなくても、独自のスタイルでアイドル活動ができる文化も定着した。
東京宝映が切り開いてきた養成所のシステムは、時代と共に、その役割を終えつつあるのかもしれない。ただしこの流れは他の芸能プロにとっても他人ごとではない。少子化問題や働き方改革におけるマネジメント人材の不足、さらにSNSの発達などは、たとえ大手芸能プロでも脅威に感じているはずだ。そうした意味で、宝映のは今後の芸能界において大きな転換点になるような気がしてならない。
渡邉裕二(わたなべ・ゆうじ)
芸能ジャーナリスト
デイリー新潮編集部